部屋に戻ると、彼は、壁の穴から例の品物を全部引っぱりだしてポケットにつめこんだ。アクセサリー入れのような小箱が2つ、革袋が4つ、新聞紙でくるんだ鎖と、もうひとつ新聞紙でくるんだ勲章のようなもの。それと財布だ。それらを全部持ち出すと、ドアを開け放したままにして出て行った。
自分を尾行させる命令が出る前に証拠品を処分する必要があった。水の中に投げ込もうと川岸をさまよい歩いたが、決行しようとするたびに、女が洗濯していたり、ボートが近寄ってきたりで実行できない。少し離れたニェヴァ河の方ならなんとかなるかとそちらに向かう。いや、しかし水の中に投げ入れてしまえば二度と取り戻せない。そこらの島に隠して目印でも付けておく方がいいんじゃないか。合理的な考えができている自信はなかったが、間違っていないことのように思われた。
しかし、ラスコーリニコフの運命は、島とは別にあった。大通りから広場へ出る途中で、人気のない資材置き場を見つけたのだ。工場か何かの建物の裏手にあって、そこに面する壁には窓がひとつもない。通りからも陰になっている。壁にもたせかけた大きな石材、それを少し動かすと下にはおあつらえむきのくぼみがあった。そこにポケットのものを残らず放り込むと、石を元に戻してまわりを足で踏み固めた。目に付くような痕はまったくなくなった。
これで証拠はなくなった。あの石の感じからして、家が建ったころからあそこにあったはずだ。抑えきれない歓喜が彼を包む。もしあれが見つかったとしても、自分とのつながりなんて何もないんだから。彼は思わず笑い出した。そしてそのままくすくす笑いながら広場を通り抜けた。しかし、一昨日の少女を見かけたあたりにさしかかると急にまた不安になる。あの警官に出くわしたらどうしよう…。
そんなことよりもっと、心の奥に何かひっかかるものがあるのを感じながら、ラスコーリニコフは落ち着かない悪意のこもった目つきを周囲に向けながら歩いていく。
突然彼は足を止めた。ひとつの疑問。今まで思いつかなかったのがふしぎなくらいの単純な疑問が彼の心をとらえたのである。
『もしもあれが突発的なことでなく、きちんと意識的に、しっかりした目的を持って行ったんだとしたら、いったいそういうわけでおまえは、今の今まで財布の中を覗いて見ようともしなければ、手に入れたものが何なのかも知らないなんてことになるんだ? いったい何のためにおまえは、あれほど恐ろしい思いをして、あんな卑劣な、醜悪で、軽蔑すべき行為を働くようなまねをしたんだ? 現にさっきも、あの財布を、まだよく調べてみないほかの品物といっしょくたにして、水の中に投げ込もうとしてたじゃないか。…。あれはどういうことなんだ?』
そのとおり、何もかもそのとおりだった。
『これはボクがひどい病気にかかっているからなんだ』と、やがて彼は渋々認めた。『ボクは自分を苦しめ、責め、自分のしていることがわからないんだ…。昨日も、一昨日も、このところずっと自分を追いつめてばかりいた。身体がすっかり良くなったら…、そしたら自分を苦しめることもなくなるのだろう…。だがもし、このまま身体が良くならないとしたら…。ああ! これからいったいどうなるんだ!』彼はそのまま歩き続けた。何かで気を晴らしたくてしかたがなかった。いったいどうしたらいいのか、何から手をつけたらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。どうにも抑えきれない感情。その感情がどんどん大きくなってくる。世の中すべてのものに向けられる嫌悪の感情。行き会う人のすべてが彼には醜悪なものに思われた。もし誰かが彼に話しかけでもしようものなら、相手かまわずいきなりつばを吐きかけるか、かみついてでもやりたい気持ちだった。
ラスコーリニコフはふと足を止めた。いつの間にか、唯一の友人、ラズーミヒンの家のすぐ近くまで来ていた。無意識のうちにわざわざやって来たのか、それともただの偶然なのか、自分でもよくわからなかった。どっちでもいいや、行ってやろう、とラスコーリニコフは、ラズーミヒンの部屋を訪ねる。彼は、あまりにもみすぼらしい友の格好に驚く。椅子に腰掛けたラスコーニコフだが、明らかに様子がおかしい。病人のようだ。ラスコーリニコフは、家庭教師の口を紹介してくれないか、とまるでうわごとのようにようにブツブツ言う。自分の身体のことをしきりに心配するラズーミヒン。その態度に、なぜだか急にイライラを爆発させるラスコーリニコフ。帰ると言って立ち上がる友の剣幕に驚いたラズーミヒンは、ラスコーリニコフにドイツ語の論文を翻訳する仕事を世話してやる。前金で3ルーブル。その金をつかむとラスコーリニコフはそのままひと言も発せぬまま部屋を後にする。あっけにとられて見送るラズーミヒンを無視するように。
しかし、通りに出て最初の曲がり角でくるりと振り返ると、ラスコーリニコフはそのままラズーミヒンの部屋に戻っていった。そしてドイツ語の論文とさっきの3ルーブルをいきなりテーブルの上に置くと、そのまままたひと言も口を聞かずにさっさと出て行ってしまった。
「何をしに来たんだ、いったい!?」と怒鳴るラズーミヒンに、ラスコーリニコフは、「仕事なんかいらない!」と捨て台詞をはいて去っていく。
往来に出たラスコーリニコフの足下はおぼつかない。あやうく馬車に轢かれそうになり、御者に思いっきり鞭打たれてしまう。「当たり屋が失敗しやがった」と周囲から嘲笑をあびても、ラスコーリニコフはその場をすぐには立ち去れなかった。橋の欄干にもたれかかって打たれた背中をさすっていると、小さな女の子を連れた婦人から20コペイカ銀貨を1枚握らされる。祈りの言葉とともに。その服装と様子から彼を乞食と間違えたのだ。20コペイカは乞食にやるには大金だが、鞭打たれたところを目撃して哀れに思ったのだろう。
彼は20コペイカを握りしめてあたりを見まわした。川岸の美しい眺め。空は真っ青に晴れ渡り、川の向こう、宮殿のある方角に大寺院のドームが見える。寺院に施されたひとつひとつの装飾までがくっきりと見えていた。鞭の傷みはいつの間にか消えていた。それどころか鞭打たれたことさえ忘れていた。彼はそこにつっ立ったまま、長いことじっと遠くの方を見つめていた。そこは実は、彼にとってなじみの深い場所だった。まだ大学に通っていたころ、その帰り道にいつもここに立ち止まって、すばらしいパノラマに見入っていた。当時は、その美しさの裏にどうにも得体の知れぬ怪しさ、理解不能の陰気さを実は感じていたのだったが、そんなことを今、突然思い出すなんて…。とても偶然とは思えなかった。偶然ここに立ち止まるなんて。どこかこの下の、深い深いところに…、以前の印象や、記憶、過去の思想など、自分のありとあらゆるものが隠されているように思われた。なにげなく手を動かしたはずみに、20コペイカをしっかりと握りしめていることに気づく。彼はしばらくその銀貨を眺めていたが、やがて無造作にそれを水の中に投げ入れてしまった。家に向かって歩き始めるラスコーリニコフ。彼はその瞬間、自分をはさみか何かでプッツリと、あらゆる人、あらゆる物事から断ち切ってしまったような気がした。
家に帰り着いたときにはもう夕方近くになっていた。まる6時間も歩き回っていたことになる。彼は、横になってコートを引っかぶったかと思うと、たちまち前後不覚に陥った…。
あたりがすっかり暗くなったころ、ラスコーリニコフは恐ろしい叫び声を聞いてはっと目を覚ます。悲鳴、泣き声、ののしり合い、そして何かを殴りつける音。悲鳴とののしり合いはどんどんエスカレートしていく。よく聞くとそれはおかみさんの声だ。相手は…。相手は、あの副署長のペトローヴィチじゃないか。あいつがここへ来ておかみさんを殴りつけている! 人が集まってくる物音が聞こえる。階段や踊り場に人があふれているようだ。この騒ぎは、あの事件のせい以外には考えられない。彼は、なんとかドアに掛け金をかけようとするのだが、どうにも身体が動かない。氷のような恐怖が彼の心を押し包んでいる。やがて騒ぎはおさまっていくが、ペトローヴィチがおかみさんを問いつめ続ける声だけがいつまでも聞こえている。その話し声はときおり怒鳴り声になったかと思うと、こんどは囁き声になって…。
ラスコーリニコフは、再びソファーの上に倒れこんだ。しかしそのまま目を閉じることができなかった。恐怖で金縛りにあったようにそのまま30分ほど横になっていた。とつぜん、部屋にまぶしいほどの光があふれる。ナスターシャが蝋燭を手に食事を持って入って来たのだ。彼が眠っていないのに気づくと、パンとスープを食べさせようとする。
「どうせ昨日から何も食べてないんでしょう? 一日中ほっつき歩いてたんだからね。そんなボロボロの身体でさ…」
「ナスターシャ、…。なんでおかみさんはやつに殴られたりしたんだ?」
彼女はじっと彼の顔を見つめた。
「誰がおかみさんを殴ったって?」
「たった今…、いや30分ほど前か…、警察のペトローヴィチが階段のあたりでさ…。なんだってあいつはおかみさんをあんなに叩きのめしたんだい? というか、いったい何しにやって来たんだい?」
ナスターシャは怪訝そうに、じっと長いこと彼を見つめたままでいた。あまり長く見つめるので、彼は非常に不快に、同時に恐怖も感じていた。
「ナスターシャ、なんだって黙ってるんだい?」たまりかねて、彼は弱々しい声で尋ねた。
「血のせいだわ…」彼女は小さな声で独り言のように答えた。
「血…? いったい何の血だ!? …」彼はさっと青ざめて、壁の方に飛びすさりながら訊いた。ナスターシャはあいかわらず無言のまま彼の顔を見つめていた。
「誰もおかみさんを殴ったりしないわよ」彼女は強い口調で言った。ラスコーリニコフは驚いて息をするのもやっとというありさまだった。
「たしかに聞いた…。眠ってなんかいやしない…。ボクは起きて、ここに座って聞いていた」彼は怯えたように言った。「ボクはずっと聞いていた…。ペトローヴィチがやって来た…。みんなが階段のところに駆けつけた…。部屋という部屋からみんな…」
「誰も来た人なんていないわよ。あんた、血が騒いでるのよ。血のめぐりがおかしくなってお腹の中で固まってくると、おかしなものが見えたり聞こえたりするようになるのよ…。ねえ、これ、食べるの? 食べないの?」
彼は返事をしなかった。しばらくして水を頼むと、ひと口だけ飲んで後は胸の上にこぼしてしまい、そのまま意識を失った。
熱病状態で彼は幻覚を見ていた。自分の周りに大勢が集まって、彼を捕まえてどこかへ連れて行こうとして言い争いをしている。そうかと思うと、こんどは自分を恐れて、みんながドアの外からこっちの様子を伺っている。あの事件のことはすっかり忘れているのだが、しかしその、何かを忘れているという恐怖感がひっきりなしに襲ってくる。飛び起きて逃げだそうとするのだが、そのたびに誰かに力ずくで引き戻される。そんな幻覚が何度も彼を襲っていた。その間、ナスターシャがときおり様子を見に来てくれていたのだけはなんとなく感じていた。
★7月14日
朝の10時頃のことだった。目を覚ますと、部屋の中に見知らぬ男が立っていた。野良着のような上着を着た、あごひげの男。部屋の中にはナスターシャもいて、おかみさんがドアのところから覗いている。ラスコーリニコフが正気づいたのを知ると、おかみさんはすぐにドアを閉めて姿を隠してしまった。
「あなたはどなたですか?」と聞くのと同時に、ラズーミヒンが入ってくる。背が高いのであやうくドア枠に頭をぶつけそうになっている。
「やっと正気づいたって? たった今おかみさんから聞いたよ」
「たった今正気づいたのよ」ナスターシャが言った。
「たった今正気づかれました」と、微笑を浮かべてひげの男が相づちを打った。
「あれ? そういうあなたはどなたです?」と、ラズーミヒンは急に男に向き直った。「ボクはヴラズーミヒンという者です。みんなはラズーミヒンと呼びますが、実はヴラズーミヒンが正しい名前です。大学生で、貴族の息子です。これはボクの友人です。さて、あなたはいったいどなたなんでしょう?」
「わたしは商人の協同組合に勤めているものですが、今日はその使いでこちらへお伺いいたしました」
「よかったらこちらの椅子にどうぞ」と勧めて、ラズーミヒンはテーブルの向こう側の別の椅子に腰掛けた。「それにしても、キミ、よくもまあ正気づいてくれたもんだなあ。これでもう4日もほとんど飲まず食わずだったんだぜ。お茶までスプーンで飲ませる始末だったんだからなあ。ボクはここへ二度もゾシーモフを引っぱって来たんだよ。ゾシーモフって覚えてるだろ? じっくりとキミを診察して、だいじょうぶだと太鼓判を押してくれてひと安心だったんだけどね。…なあにちょっと脳を傷めたような具合らしい。神経が少しこんがらかって、おまけに栄養失調で…、つまりビールとわさびが足りなかったんだそうだ。それであんなに悪くなったと言うんだが、しかしたいしたことはない、すぐに元気になるそうだよ。たいしたやつだよ、ゾシーモフは! 堂々たる治療ぶりを見せるようになったものさ。しかしまあ、あなたの用件の邪魔をするのはもうやめにしましょう」と、彼はまた男の方に向き直った。
男はこの間、二度もこの部屋にやって来たらしい。母親からの依頼でヴァフルーシンという男が組合経由で送ってきた、35ルーブルの金を渡しに来たのであった。ラズーミヒンは、ラスコーリニコフを起こして受け取りにサインさせようとする。しかし、ラスコーリニコフは、「金なんかいらない!」と強い口調で拒否する。しかしラズーミヒンはいつもの軽口で彼を説得し、無理矢理金を受け取らせたのだった。
ナスターシャが用意した、普段からすればリッチな食事を前に、ビールで彼らは祝杯をあげる。
ラズーミヒンは、あの後、ラスコーリニコフを探して方々かけずり回ったらしい。ラスコーリニコフは、この部屋のことを一番の友にも教えてはいなかったのだ。最後に警察署でこの住所を教わったと言う。普通のリストとは別の何かのメモに自分の名前が書き記してあったと聞いて、ラスコーリニコフは血相を変える。ラズーミヒンがペラペラと話す間、警察署でフォミッチ署長やペトローヴィチやあのときの事務官・ザミョートフと親しく会話を交わしてきたことを自慢し続ける間、ラスコーリニコフはじっと押し黙っていた。ザミョートフとは特に親しくなったらしい。
ラズーミヒンはさらに、ここのおかみさんとこの数日でいかに親しくなったかを自慢し始める。あれほどに優しい女性はいないよ、と。
ラスコーリニコフは適当に相づちを打って話を続けさせる。考える時間がほしかったのだ。
過去に消え去った、おかみさんの娘とラスコーリニコフとの結婚話。ラズーミヒンの調査能力は驚くべきものだ。おかみさんが当初はラスコーリニコフをたいそう気に入っていていたこと、いつの間にか大学にも行かなくなり、家庭教師の口もなくなり、着るものにさえ不自由するようになった彼にやがて失望し始めたことなどを彼女から聞き出していた。
「当の娘さんが亡くなってしまって、キミを親類扱いする必要がないってことに急になって、彼女はどうしていいかわからなくなったらしいよ。キミはキミで、ひきこもったきりで、一向に以前のような関係に戻ろうとしなかったんだろ。だから彼女は、キミをここから追い出す気になってしまったのさ。彼女はその気持ちをずっと抱いていたわけだが、そのうち、よき関係だったころにキミが書いた例の借用書が気になりだした。貸したお金が惜しいってね。そんなときに、キミは、こんな金はいざとなれば母親に頼めば何でもない、みたいなことを言ったらしいじゃないか」
「あのときは、何とか言い返したくてそう言っただけさ…。うちの母親だって乞食になりかねないようなことになってるし…。あれは、なんとかここに置いてもらってメシだけでも食わせてもらいたかったもんで、つい口から出ただけなんだ!」
「うん、そこまではまあいいとしよう。ところがその後大問題が発生した。七等官で抜け目のない男、チェバーロフの登場だ。あの男さえいなければ、おかみさんはおそらく何も考えつかなかったに違いないよ。おくゆかしい女性だもんな。そこへいくとあの男はおくゆかしさのかけらもない。キミの借用書が有用な物かどうか、そこはずいぶん調べたらしいがね…。で、その結果、ひともうけできる可能性が十分あると考えた。自分の食うものを削ってもかわいい息子を救ってやりたいと思う、年金生活の母親はいるし、愛する兄のためなら自分は悪魔に魂を売ってもかまわないという妹もいるってのをかぎつけたわけだからね。…。おいおい、何を急にもぞもぞしだしたんだい? ボクはねえ、キミ、今じゃあキミのことならすっかり知っちまったんだぜ。キミがまだおかみさんと親戚づきあいをしてるころに、彼女にあれこれ話してたのが今ごろ役に立ったというわけさ。彼女だって、キミのことを思えばこそボクにそんなことを伝えたんだ。そこんところはよくわかってやらないといけないよ…。ところで、おかみさんにはそんなつもりはなかったにせよ、その男にとっては、これがまあいい話だったわけさ。抜け目なくそんな話を聞き出しては食い物にするそんな男にとってはね…。チャンスがあれば骨までしゃぶっちまおうというんだからね。そういうわけで、彼女は、男への支払いの代わりに一時的にキミの借用書を渡したわけさ。そのチェバーロフという男にね。ところが相手は一瞬のためらいもなく、正式の手続きでもってキミに請求してきたというわけさ」
ラズーミヒンは、この数日間、友のために奔走し、借用書を取り戻してくれていた。だが、目の前に差し出された借用書を目にすると、ラスコーリニコフは、くるりと壁の方に背を向けてしまった。ラズーミヒンはさすがにむっとしたが、病気の友を気遣う気持ちから、余計なことをしてすまなかったと謝るのだった。
背中を向けたまま、ラスコーリニコフはラズーミヒンの話を聞く。何かうわごとを口走っていたと聞いて、どんなうわごとを言っていたんだ? と、何度も聞き返す。
ラズーミヒンはその様子を不審に思うが、ひととおり説明してやる。イヤリングがどうだの、鎖がどうだの、どっかの門番がどうしただの、フォミッチがどうしただの、そんなうわごとを言っていたと…。
「ああ、そのほかにまだ、ご自分の靴下のことをことのほかたいそうに気にしてらっしゃいましたよ、あなた様はね! 哀れな声で、靴下を返せ、靴下を返せ、の一点張りさ。キミとお近づきになりたいってんでたまたま来てたザミョートフも一緒に探してくれたんだぜ。靴下を渡してやるとやっとキミはご安心あそばして、それからずっとそれを握りしめて眠っていたよ。布団の下かどこかにまだころがっているだろうよ。それから、ズボンの切れ端をねだってもいたかな。涙を流しかねない激しさでね。いったいそんなものどこにあるんだって何度も尋ねたんだが、さっぱり要領をえなくてね…」
ひととおり説明し終えると、ラズーミヒンはナスターシャにその場を任せてどこかへ出かけて行った。階段の方から聞こえるラズーミヒンとおかみさんとの会話。ナスターシャはドアを少し開けて聴き耳をたてていたが、二人の話をもっとはっきり聞こうと部屋から出て行った。
ドアがしまると同時に、ラスコーリニコフは布団をはねのけて飛び起きた。ずっと二人がいなくなる瞬間を待っていたのだ。すぐに仕事にとりかからないと! あいつらは本当にまだ気づいていないのか? それとも何もかもわかっていて自分をからかっているつもりなのか? こっちの様子を見ていて急に驚かしに出てくるつもりじゃないのか? …。あれ? 何をしようとしていたんだろう? 急にふっと忘れてしまった。ついさっきまでしようとしていたこと…。
彼は部屋の真ん中に突っ立って、あたりを見廻した。ドアを開けて聴き耳をたてる。不意に、例の壁の穴に駆けよると、そこに手をつっこんだ。次にストーブに近寄り、フタを開けて灰の中をかき回し始めた。そこにはズボンの切れ端がそのまま残っていた。どうやら誰も調べてみなかったらしい。そこで急に靴下のことを思い出したが、あんなものは汚れきっていて血の痕跡に気づくようなことはなかっただろう、と自分を納得させた。
急にひとつ思い出した。ラズーミヒンが警察のことを何か言っていたことが気になっていたのだった。そうだ、逃げないと。金はある。借用書も戻ってきた。あいつらがこっちを病気だと思っているうちに逃げ出さないと。ボクが逃げ出せるってことをあいつらは考えもしないはずだ。だが、もし下に見張りがいたらどうする…?
ラスコーリニコフはテーブルの上に起きっぱなしになっていたビールに手を伸ばすと、一気に飲みほした。胸の中に湧き上がる炎を消そうとでもするように。しかしアルコールは今のラスコーリニコフには効きすぎた。頭がくらくらしてくる。悪寒が逆に気持ちよく感じる。結局そのまま横になると、布団を引っかぶって心地よい眠りの中に落ちていった。
物音で目を覚ますと、部屋には大きな包みを抱えたラズーミヒンがいた。すでに夕方になっている。ラズーミヒンはいきなり近所に引っ越してきていて、伯父と一緒に住むのだと言う。包みの中身はラスコーリニコフのための衣服だった。古着屋で格安で、服が傷めば別のに交換してもらえる条件で手に入れてきたらしい。帽子、ズボン、ズボンと揃いのチョッキ、靴、シャツが3枚、肌着一式…。しめて9ルーブル55コペイカ。25ルーブルと45コペイカ残してやったぞ、と押しつけがましく自慢するラズーミヒンに、ラスコーリニコフは嫌悪感を顕わにする。が、相手は気にもせず、ナスターシャと2人で無理矢理シャツを着替えさせてしまうのだった。
「いったいどこでそんな金を手に入れたんだ?」と不思議そうに聞くラスコーリニコフ。彼は、先だってのことを記憶していなかったのだ。金の出どこの説明を聞いて、ラスコーリニコフはいまいましげな表情を浮かべる。ラズーミヒンはそんな友の様子を心配そうに見つめていた。そこへゾシーモフが入って来た。
ゾシーモフは脂肪太りの大男で、髪はブロンド、いつも青白い顔をしている。身につけている物はすべて高級品でしかも品がある。妙に気取ったところがあってどことなく付き合いにくい感じのする男だった。病人の様子を尋ねると彼は、ラスコーリニコフの手を取った。
「脈は申し分なし、と。頭はまだ痛みますか?」
「ボクは健康だ! まったくの健康体さ!」と、苛立ちをぶつけるラスコーリニコフ。ゾシーモフはその様子を冷静に観察すると、ラズーミヒンたちに、もうだいじょうぶだと告げる。ただし、しばらくは安静にさせて、スープでも飲ませてやれ、と。帰ろうとするゾシーモフを、ラズーミヒンは自分の引っ越しパーティに誘う。一緒に住む伯父や新しい仲間に紹介するからと。
「なぁに、田舎の郵便局長でくすぶっていた、65歳になる爺さんでね。特に取り柄があるような人じゃないけど、でも、とにかくボクは彼が大好きなのさ。あと、ポルフィーリも来るぜ。予審判事の。たしかキミも知り合いだったろう」
「やつもキミの親戚か何かだっけ?」
「ごく遠い何かさ。おいおい、そんなに顔をしかめなくてもいいだろう。一度ケンカしたからって。まさかそんなことで来ないとは言わないよな」
「あんなやつ、何とも思っちゃいないさ」
「そりゃあ何よりだ。あとは、大学生と、教師と、役人と、音楽家と、将校と、ザミョートフと…」
「ちょっと待った。ひとつ聞かせてほしいんだが、キミにしろ、あるいはまたこちらの先生にしてもだね、あのザミョートフとかいうのとどういう関係があるんだい?」
「まったくキミというやつは! ボクがいいやつだと言うんだから間違いないだろう! ザミョートフは申し分のない立派な男さ」
「立派に私腹を肥やしてる…」
「私腹を肥やしてるからどうだって言うんだ! 別にそれをほめたたえているわけじゃない。あの男はあの男なりにいいやつだと言っただけじゃないか! じゃあ言ってやろう、人間をあらゆる角度からチェックしたとして、どこにも非の打ちどころがない立派な人間なんて実際この世にいるのかい? そんなことになったらボクなんかせいぜい焼いた玉ねぎひとつくらいの値打ちしかありゃあしないだろうよ。それもオマケとしてキミを付けてのことかもしれないぜ」
「そいつは少ないね。ボクならキミに、玉ねぎふたつくらいの値打ちはつけるけどな…」
「おー、そうかい。ボクはキミにはひとつしか出せないね。ザミョートフはお子ちゃまなだけさ。だから突き放すんじゃなく、引っぱり回して育ててやるくらいの気持ちが必要なのさ。キミたちのような進歩的な人間には理解しがたいことかもしれないがね。他人は尊敬しない、自分さえも侮辱するというわけだろ。まあでも、どうしても彼との関係について聞きたいと言うならば、こうさ。ラスコーリニコフとザミョートフとの間には、共通の事件がひとつ存在しているんだ」
「ほう、ちょっと興味をそそられるね」
「ほら、例の、ペンキ屋の事件さ。…。そうさ、ボクらは必ずあの男を助けてみせる! やっかいな点は何ひとつないんだから。無実なのは明白さ」
「ペンキ屋?」
「あれ? 話さなかったっけ? ああそうか、さわりを少し話しただけで終わってたんだ。ほら、例の、金貸し婆さんの殺人事件さ。役人の未亡人だったっていう…。その事件に、ペンキ屋の男がまきこまれてるというわけなのさ」
「ああ、あの殺人事件のことなら、キミに話を聞く前から気にはなってたんだ。かなりね。…と言うのにはわけがあるんだよ。ところでその…」
「リザヴィエータまで殺されたのよ!」ラスコーリニコフに向かって、突然ナスターシャが声をかけた。彼女はさきほどからずっと部屋を出ないで、ドアの近くで話を聞いていたのだ。
「リザヴィエータ…?」やっと聞こえるような声でラスコーリニコフはつぶやいた。
「そうよ、リザヴィエータよ。古着屋の…。知ってるでしょ。あの人はおかみさんのところにも出入りしてたから。あんたのシャツをつくろってくれたこともあるじゃない」
ラスコーリニコフはくるりと壁の方に向き、壁紙の模様を見つめると、花柄の花びらを数えたり、ギザギザの線をたどったり、といったことに没頭した。まるで麻痺したように身動きひとつできずに、花を凝視していた。
「それでそのペンキ屋がなんだと言うんだい?」ナスターシャの話の腰を思いきり折って、ゾシーモフが話を元に戻す。
「殺人犯にされてしまったのさ!」ラズーミヒンは怒りをこめて答えた。
「何か証拠でもあったわけかい?」
「証拠なんていいかげんなものさ! ぜんぜん証拠になってやしない。間違ってるってことは誰の目にも明白なんだ。最初に、第一発見者の二人を疑ったのとおんなじさ」
ラズーミヒンは、思い出したようにラスコーリニコフに尋ねる。「キミもこの事件のことは知ってるだろ? 病気になる前の事件だもんな。キミが警察で気を失う前日の…。あのとき、警察でみんながその話をしてただろう?」
ゾシーモフがちらりとラスコーリニコフの方を見る。でも、彼は身じろぎもしなかった。
「しかし、なんだねぇ、ラズーミヒン。キミもなんともおせっかいな男だねえ」
「なんとでも言ってくれ! ボクは誰が何と言おうとあのペンキ屋を助けてみせるぞ」
ますます興奮したラズーミヒンは、テーブルをバンッと叩いて続ける。「さて、ここでいちばん癪にさわるのは何だと思う? 彼らが間違っていることにじゃない。自分たちの間違いをあがめたてまつっていることにさ。ボクはポルフィーリを尊敬してるさ。しかしだねぇ…。彼らが一番気にしてるのは何だと思う? 最初ドアには鍵がかかっていた。ところが二人が門番を連れて戻ったときには、ドアは開いていた。だから、殺したのは、第一発見者の二人…、これが彼らの論理なんだから!」
「おいおい、ちょっと興奮しすぎじゃないか? あの二人はちょっと留置されただけの話だったろ。すぐ放免というわけにもいかないだろうし。あのコッホという男なら会ったことがあるが、やつはあの婆さんから質流れの品を買い占めてたそうじゃないか。だろ?」
「ああ、そういったインチキ野郎さ! たいした商売人さ! あんなやつのことはどうだっていい! ボクは警察の連中の、十年一日のごとき時代遅れぶりに怒ってるんだよ。犯人の心理を少し考えてみればわかることなのに、やつらは、事実、事実ばっかりで、その事実をいかに処理するかという頭がないんだ!」
「なるほど、じゃあ、キミにはその頭があるというわけだ」
「そうとも。ボクなら解決に助力できるのがわかっているのに、黙って見ているわけにはいかないだろ? もしも…。う〜ん、ところでキミの方はこの事件について詳しく知っているのかい?」
「いやいや、だからさっきからペンキ屋の話を待っているんじゃないか」
「ああ、そうだったな! それじゃあそこを説明するとしよう。事件から3日目の朝のことだ。警察がまだコッホたちを相手にごそごそやっているときさ。例の建物の向かいにある酒場の亭主、ドゥーシキンとかいう百姓出身の男が、警察に出頭して、金の耳輪の入った袋を差し出したんだ。その前日の夜8時すぎにペンキ屋のミコールカが駆け込んできて、それをかたに2ルーブル貸してくれと言ったという話でね。わかるだろ、この日時の意味が。で、亭主がその出所を尋ねると、歩道で拾ったと説明したと言うんだな。で、亭主の方では1ルーブル渡して品物をまきあげたわけさ。この亭主のことはよく知ってるが、質屋まがいのことをやってて盗品でも何でもおかまいなしのくせしてね。要はびびったんだな。ミコールカが向かいで仕事してたのは亭主も知っていて、婆さんたちが斧で殺されたってのを聞いて、ピーンときたって言うんだ。で、そのあと自分の店に飲みにやって来たミコールカに、品物のことをそれとなく訊きながら、婆さんの事件のことをぶつけてみたら、真っ青になって慌てて逃げだしたらしい」
「それなら、そいつが犯人で決まりじゃないか!」
「まあまあ、話は最後まで聞いておくれよ。で、警察は全力でミコールカを捕まえにかかった。ドゥーシキンは拘留して家宅捜索、一緒に働いてたもうひとりのペンキ職人も取り調べた。…。一昨日、そのミコールカがひょんなことから逮捕された。××門の近くの旅館でね。やつはその旅館で、身につけてた銀の十字架を差し出して、そいつをかたに飲ませてくれと頼んだ。しばらくして旅館のかみさんが見に行くと、やつは納屋で首を吊ろうとしてたっていうんだな。かみさんが大声をあげて騒いだもんで、周りの連中が駆けつけてミコールカを止めた。すると、やつは、やったことを全て白状するから警察に連れて行ってくれと頼んだ。警察に突き出されてからは、お決まりの尋問さ。名前だとか、年齢だとか、職業だとか、そしてアリバイさ。ミコールカは、尋問にはきわめて素直に応じたが、品物を手に入れたいきさつについては道で拾ったと言い張った。しかし少し締め上げられると、実は作業をしてた部屋で拾ったんだと供述を変えちまった。事件のあったとき、相棒のミーティカがふざけて顔にペンキを塗りつけて逃げ出したので、後を追って部屋を出た。門のあたりで道に転がってのとっくみあいになり、通行人のじゃまになったもんで門番にたしなめられもした。ミーティカはそのままどこかへ逃げてしまい、しかたなく部屋に戻ったミコールカは、ドアかげの壁のすみで紙にくるまれたものを見つけた。開けてみるとそれは留め金のついた入れ物で、中にはイヤリングが入っていた…」
「ドアのかげ? ドアのかげに落ちていたんだな? ドアのかげに…」不意にラスコーリニコフがすっとんきょうな声を上げた。そして片手で体を支えるようにしながらゆっくりと起き上がった。ラズーミヒンを凝視している。
「おいおい、どうした。それがどうしたってんだ?」
「…。なんでもないさ」消え入りそうな声で答えると、ラスコーリニコフはまた枕の上に倒れこんで壁のほうを向いてしまった。一同はしばらく黙り込んだ。
「きっと、ねぼけたんだろう」ゾシーモフに質問するかのようにラズーミヒンがつぶやくと、ゾシーモフは否定するかのようにかぶりをふった。「まあいいさ、その先を続けてくれ。それからどうなったんだ?」
「それからも何もあるもんか。イヤリングを手にするが早いか、ミコールカは、仕事のことも相棒のことも忘れてしまって、ドゥーシキンのところに一目散というわけさ。道で拾ったと嘘をついて金を受け取ると、その足で遊びに出かけちまった。イヤリングについての供述は変わりはしたが、殺人については認めていない。逃走した理由を聞かれても、犯人と間違えられるのが怖かった、と繰り返すばかり。これが物語の一部始終さ。さあそこでだ、警察の連中はここからどんな結論を引き出したと思う?」
「考える余地ないじゃないか。疑わしいところはあると思うね。キミのペンキ屋を無罪放免に、というわけにはいかないんじゃないか?」
「でもやつらは最初からから決めつけてるんだよ。あの男が犯人だとね。疑う余地もないというわけさ」
「おいおい、キミの方が決めつけてやしないか? イヤリングはどうなんだ? 同じ日、同じ時刻に、被害者のトランクにあったイヤリングがミコールカの手に渡ったとすれば…。なにかしら手に入れるだけの理由があったってことだろ? これはとるに足りない事実とは言えないよ」
「どうやって手に入れた? どうやって手に入れただと!?」ラズーミヒンの声は次第に大きくなってくる。「キミは医者じゃないか。何よりもまず人間というものを研究する義務を持った男じゃないか。人間の性質を研究する機会を持っている男じゃないか。そのキミが、これだけの材料を前に、まだミコールカの性質がわからないのかい? あの男の証言がすべて事実だってことが? あの男はただ箱を踏んづけてそれを拾い上げただけさ」
「しかしさっきの話だと、彼だって認めたんだろ? 最初は嘘をついてたって」
「まあ聞いてよ。門番も、コッホも、ペストリャーコフも、もうひとりの門番も、それから最初の門番の女房も、そこに来合わせてたまたま門番小屋に座っていた女性も、辻馬車からちょうど下り立って夫人に手を貸して門をくぐろうとしていた七等官のクリュコーフも…、みんながみんな、路上でミコールカとミーティカが殴り合っていたのを見たと証言してるんだぜ。通行の邪魔になるもんだから大勢から悪態を浴びていたって…。ところが二人は、これは証人の言葉をそのまま借りると『まるで小さな子どもみたい』だったそうだ。なぐりあってる間にも、上になり下になりしながらじゃれ合うように笑ったり、変顔を見せ合って喜んだり、ね。そのとき階上には死体があってそれはまだ温かかったんだぜ、いいかい。発見されたときにはまだぬくもりがあったんだ!」